日本の「型」の奥にある身体観

日本の「型」の奥にある身体観

日本の伝統文化では、それが芸の道にあっても、武の道にあっても「型」を重んじるものがあります。

「初心忘るべからず」で知られる能の大成者・世阿弥はなどで「風姿花伝」と並ぶ主著といわれる「花鏡」の中でこう述べています。

「万能綰一心事」
見所の批判に云はく、「せぬところが面白き」などいふことあり。これは、為手の秘するところの安心なり。
まづ二曲をはじめとして、立ちはたらき・物まねの色々、ことごとく皆、身になす態なり。せぬところ申すは、その隙なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見るところ、これは、油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむところ、そのほか、言葉・物まね、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして、用心をもつ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、わが心をわれにも隠す安心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」。これは生死に輪廻する人間の有様をたとへなり。棚の上の作り物のあやつり、色々に見ゆれども、まことには動くものにあらず。あやつりたる糸の態度なり。この糸切れん時は、落ちくずれなんとの心なり。申楽も色々の物まねは作り物なり。これを持つものは心なり。この心をば人に見ゆべからず。もしもし見えば、あやつりの糸の見えんがごとし。かへすがへす、心を糸にして、人に知らせずして、万能をつなぐべし。かくのごとくならば、能の命あるべし。総じて即座に限るべからず。日々夜々、行住坐臥にこの心を忘れずして、定心につなぐべし。かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし。この条々、極めたる秘伝なり。稽古有緩急。

世阿弥が参禅した事は知られていますし、仏教用語、禅語として用いられる「行住坐臥」という言葉を引用していることから、禅の影響もあり身体の姿勢のことも含んでいることは間違い無いでしょう。極めたる秘伝というのですから、世が世なら、私たちに伝わっていなかったことでもあるのでしょうが、今はいい時代かもしれませんね。そのくらい重要な事でもあると言えます。(秘伝は、初伝→中伝→奥伝→皆伝→秘伝というように、訓えの最上位を意味します)

 

剣聖宮本武蔵は、死の直前に仕上げたと言われる「五輪書」にて

一 兵法、身なりの事。
身のかゝり、顔ハうつむかず、あをのかず、 かたむかず、ひずまず、 目をみださず、額にしわをよせず、 眉あひにしわをよせて、 目の玉のうごかざる様にして、 またゝきをせぬやうに思ひて、 目を少しすくめる様にして、うらやかにみゆる顔。 鼻筋直にして、少おとがひに*出す心也。 首ハ、うしろのすぢを直に、うなじに力をいれて、 肩より惣身はひとしく覚え、 両の肩をさげ、背筋をろくに、尻を出さず、 膝より足先まで力を入て、 腰のかゞまざるやうに、腹をはり、 くさびをしむると云て、脇ざしのさやに 腹をもたせて、帯のくつろがざる様に、 くさびをしむる、と云おしへ有。惣而、兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、 兵法の身を常の身とする事、肝要也。 能々吟味すべし。

と姿勢の重要性を述べています。

「水の巻」の冒頭で兵法二天一流の概要の記述で、 「此書に書付たる所、 一こと/\、一字/\にて思案すべし。 大かたに思ひてハ、 道の違ふ事多かるべし。」と、念を押しているくらいです。

決闘において生きるか死ぬか、文字通り切った張ったの世界で生きた人の言葉には凄み重みがあり、凡庸な私が講釈を挟むのはナンセンス、その余地すらありません。巷に溢れている「商売的な自己啓発法」では、決して到りえない領域かもしれません。

 

曹洞宗(永平寺)の開祖・道元禅師はその主著のひとつ「普勧坐禅儀」の中で、

それ参禅は静室(じょうしつ)宜しく飲食(おんじき)節あり。諸縁を崩捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して善悪(ぜんなく)を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ。心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ、豈(あ)に坐臥(ざが)に拘(かか)わらんや。 尋常(よのつね)坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)、謂(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿を圧(お)すなり、寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし。次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大拇指(だいぼし)向かいて、
相(あい)さそう、乃(すなわ)ち正身端座(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし、鼻息(びそく)微(かす)かに通じ身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん、非思量、此(こ)れ乃ち坐禅の要術なり。

曹洞禅では規矩(道元禅師清規)が厳密に定められていて、道元の時代から今に至るまで保持されていることでも知られています。

普勧坐禅儀では事細やかに、坐禅を行う室内のあり方をはじめ、坐り方、姿勢(耳と肩、鼻と臍の位置)から口の中の舌の置き方、呼吸の仕方に到るまで、厳密に記されていますね。

 

こうやって古来から伝わるいわゆる秘伝の書を見ると、先達が「秘奥義」というくらいに姿勢から始まる身体観を重要視していたかがわかります。

実体験を振り返ってみても、定期的に開催している坐禅会では、まずはじめに参加される方々の姿勢をチェックすることになるのですが、気づかされることが多くあります。

面白いことにその人の健康状態は然り、仕事のパフォーマンスにおいても彼らの身体観とつながっていると思えることはよくあるし、姿勢のいい方は成果もいい。そういう発見があったからか、自らの姿勢はどうか?と考えるようにもなり、役得かもしれませんが結果としてケーススタディが積み重なるということはあるかもしれません。

姿勢が歪んでいるということは、その分、身体に余計な負荷(重力)がかかりその分の疲れが乗っかっているわけですが、長年それらが積み重なることによって痛みが出るのは当然のことです。また、その疲れは気持ちの上でもストレスを引き起こす素因にもなっているでしょう。その疲れがなければ抱かないであろう気持ちの不調が、仕事や対人関係にも影響を与えることはあることも容易に推察できます。

正しい姿勢というのは重力との関係からも力学上最も安定する自然な姿勢を保つ、ということでもあり、実際に、普勧坐禅儀に示されるようには肩に、鼻はヘソにとすると、骨盤は自然と立ち、肩の力は自然に抜けてくる感じがします。

 

「型」の話をすると、枠にはめるようで窮屈ではないか?というイメージや、細かいやつだなと敬遠される方もありそうな気がします。

かくいう私も最初はそう思っていましたし、何も知らないで「型」だけをやらされたのであれば、その通り窮屈以外の何者でもないと思います。

しかし「型」というのは、非日常的な身体操作に自らを投じることで、先達たちの智慧に最短でアクセスすることができる「おいしいもの」だということがわかれば、我流で誤った実践を続けるよりはいいでしょう。

もの私はまだまだその領域に至らずで偉そうなことは何一つ言えませんが、訓練次第では、その「型」に秘められた妙の世界観を体現できるものなんでしょう。

 

 

さて、「型」から転じて。

先進国として最下位、長年低い生産性を続けてきたといわれる日本。法整備を進め社会制度を整えることも大切、最先端の設備を導入するとか、ということも必要条件だとは思います。しかしながら、絶対条件だとは思えません。絶対条件とは、結局のところ、私たちひとりひとりの主体性に関わる不可侵の領域であり、国や社会制度や組織が何から何まで介入できるものではなく、私たちに委ねられているものです。

では、そもそも、それら道具を使う主体の人間自体の生産性はどうなっているのでしょう。

日々進化しているIT機器などを見ても、確かに世の中何かと効率的になっている側面はあるかとは思いますが、それらを使う人が猫背になっていることに気づかず一日中PCに向かい続けて、それが真に生産性(付加価値/投入量)が向上につながる、創造的作業を捗らせているとは思えません。

むしろ、効率を追求し、生産性の分子である投入量(時間・労力・費用)が減らそうと機械化(ないしはAI化)を試みても、その結果心身の不調者の増加やそれに伴って社会の寛容性が失われていくことが考えられるとしたら、なんのための機械化がわかりません。生産性の分子(価値を生む)を創る源泉が人間にある以上、人間が人間本来の機能を発揮できないという負の外部効果にも目を向けなければならないでしょう。大局的に見ると改善するどころか、改悪になっているかもしれません。

より本質的なことが問われるようになった今だからこそ、人生に仕事に現状を打破するために、日本古来にある「型」に一旦立ち返り、先人たちの言わんとしたことを辿ってみることは、何も新しいものを貪るように追いかけなくても課題を超克する黄金律のようなものが秘められているように思います。

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