子どもの身体感覚

私の毎朝坐禅をしているのを見ている5歳の息子。

「パパー、坐禅できたで〜」

と、いうので振り返ってみたら、6歳になるのを目前にして、これまで組めなかった結跏趺坐(両脚を交差してそれぞれ腿の上に置く※片脚だけのは半跏趺坐)が組めるようになっていました。

特にやらせているわけではないですが、子供は親の真似をするもので、その度に姿勢チェックなどをしながら写真を撮って、2016年からの定点観測しています(トップの画像 左から2016年、17年、18年、一番右が直近)。

耳、肩、臍の位置が随分とまっすぐになってきているのが伺えます。随分とコツをつかんできているようですね。

最初は「こんな風にするの〜?」と言いながら、真似をしようとしますが、やはり脚が組めません。結跏趺坐を教えてあげましたがさすがに最初は痛がったので、片足の半跏から始め、今月誕生日を迎える8月15日の夜に両脚が組めるようになりました。

自分の子を見ながら分かったのは、細かく教えなくても子供は自然とすぐに正しい姿勢になれるところです。

まだ癖がついていない分、重力に逆って体に余計な負荷をかけない力学的にみても安定した状態を自然にできるんだ、と気付かされます。

稽古を積んでいる方なら別ですが、一般的な大人だとそういうわけにはいかないことがあります。

足が組めないというのもありますが、首が前傾していたり、猫背で肩が上がっていたり、骨盤が前傾(後傾)していたり、呼吸が浅かったり、皆さんどこか緊張して体に余計な負荷がかかっているということに自覚がないことが多いのです。

そんな場合、姿勢と呼応するように若い方でも、肥満、肩こり、腰痛、膝痛、坐骨神経痛、躁鬱などの症状を抱えている場合も多いです。

実は、私も30代の前半、坐禅のいう調身・調息・調心に触れていくうちに、これらは解消してしまいました。(逆にいうと、キープしないと上記症状はきっと再発しますね)

その点、子供は力みがありません。

坐禅の自然体の姿勢がなかなかできない場合、どこか頭の中で「正しい姿勢にならなければならない」の「ねば」が入って力みが生まれるんですよね。

子供は、そもそも、「正しい姿勢にならなければならない」という観念がなく、単なる好奇心で自分にとって一番楽な姿勢に直接アクセスができるので、そこにああでもない、こうでもないという思慮という夾雑物がなく、いとも簡単にできてしまったりするのです。よくみていると呼吸の方法なども教えなくても、坐禅の姿勢をとると自然と深い呼吸をしているようです。大人よりもスッと入れるのです。

子供の弱みというと、長時間持続ができないということですかね。大人なら30分やれと言われればできるものですが、さすがに子供はじっとしていられないです(笑)

研修の一環で坐禅会などを行うと、その因果関係を説明しろというとできないのですが、姿勢と事業の成果などがリンクしているのではないか?と感じることも多々あります。どの分野にしても高い成果を出し続けている方は、坐禅のいうところの正しい姿勢にスッと入れて、背中やお尻にどこかオーラがあるのです。そのような事例もたくさん観る機会を得たので、鶏が先か卵が先かとよく言いますが、彼らは、そういう姿勢だから仕事もうまくいく、と考えるようにしていますし、私自身もよい姿勢を維持しようと素直に思えるようになりました。

私にとってはその方便のひとつが坐禅ですが、日本古来の武芸などに於いてもその立ち居振る舞いにおいて、自然の力に逆らわず不要な労力を必要最小限にし、効果性を最大化する哲学はその根底にあり、現代人がそこから学ぶことは多いと考えています。

戦でまさに真剣勝負の武術、天皇や将軍の前で演舞した能などは粗相があったらそこで命を失います。言葉で言えば、「無駄を削ぎ落とす」技術なのですが、生命の生存を守るということが前提に歴史の淘汰を乗り越えてきた知恵と現代のように生活の利便性の向上のためのライフハック的なものではその発想の土台が違います。

決して新しいものを否定するつもりはありませんが、次から次へと出てくる最新のメソッドを追ってばかりいてもキリがありませんし、今の時代、情報が多過ぎてその取捨選択に煩わされることが往往にしております。そこで頼りになるのは、結局のところ、自分自身ですし、もっといえば自分にしかないもの、つまり自身の身体であり、身体から得られる直感です。身体の声から離れた外側のものだけを観念的に取り入れてしまうと、表面的な理解にとどまってしまう危険性もあるのではないでしょうか。

 

また、話がちょっと外れてしまうように感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、今、政府の働き方改革を発端に、生産性という言葉がうるさく耳に入ってきています。元々は製造業などの生産管理で当たり前に使われていた言葉が随分と身近になりました。

生産性の公式は、ざっくりいうと「付加価値/投入量(労力・時間・コスト)」で表されます。

長時間労働の是正をするのはその投入量を減らすための手段のひとつです。

分子である付加価値は最大に、分母の投入量は必要最小限に。

ものづくりにしても、サービスにしても、それが今はもう表面に出てこずにあったとしても、日本に古来から受け継がれてDNDに刻まれている身体感覚に、今、私たちが真に生産性と幸福感の両立するヒントが大いにあると思います。

 


※ここでいう坐禅の正しい姿勢とは、普勧坐禅儀(道元)を参照しています。

現代語訳は数多く出ていますのであえてここでは割愛します。原文そのまま読んでいただき道元禅師の云わんとしたところを直接感じ取っていただけたらと思います。

それ参禅は静室(じょうしつ)宜しく飲食(おんじき)節あり。諸縁を崩捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して善悪(ぜんなく)を思わず是非を管(かん)すること莫(なか)れ。心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ、豈(あ)に坐臥(ざが)に拘(かか)わらんや。 尋常(よのつね)坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)、謂(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿を圧(お)すなり、寛(ゆる)く衣帯を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし。
次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大拇指(だいぼし)向かいて、相(あい)さそう、乃(すなわ)ち正身端座(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし、鼻息(びそく)微(かす)かに通じ身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん、非思量、此(こ)れ乃ち坐禅の要術なり。

 

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